darkな話

人身事故がある度、自殺は日常にあるものと感じられる。
しかし、死を身近に感じるといっても、
名前も顔も知らない人に思いを馳せることはできない。

私と同じくらい無名な誰かが。
そんなことを。
人身事故現場に遭遇したことはない。
だから、どれ程グロテスクなものなのか、想像する。
それから目の前にその光景がフラッシュバックするんだ。過去が現在、そして未来にも、再現される恐怖。
そんな苦痛はできれば避けて通りたい。PTSDも、トラウマも。


昨日は人身事故があったらしい。

その女性は死ぬことによってわたしに認識された。
彼女が電車到着時刻発車時刻をかき乱し、
彼女以外の者は必死に混乱を鎮める、ひたに日常を取り戻す。

日常は大きなうねりを見せた。
電車のシステムによって、顔の見えないマスと自分が対峙する。
それ以上の快感は無いだろう。
飛び降り、服毒、ガスで自殺した記事が新聞に載る。しかしそれはそれだけのもの。
電車飛び込みは、多分、生きた中で最大数の人間に、直接関わることができる。
しかも自分では何の用意もいらないから、楽。

彼女にとってのビッグ・イベントには、当然リスクだってある。

ご存知のように遺族が支払わなければいけない損害賠償金は莫大で、最もお金のかかる自殺方の1つである。
もう一点、先にも挙げたこの「大衆とぶつかる死に方」は、被衝突物である我々の精神的ダメージがより大きい。


死は、それに伴う痛みと同様に、日常世界から影を潜めつつある。
しかし機会が少なくて免役が無いどころか、私たちむしろは訃報に慣らされているとも考えられる。
なぜなら、それは数字だからだ。


ここに殺人の例を挙げる。
マスコミにおいて、被害者とは善良な市民の一点張りであり、その個々人の状況や過去は無視される。ワイドショーは犯人の背景ばかりを取り上げる(ある本に詳しい→※1)。

これは、事件が起こると犯人を1人に絞りたがるという大衆報道の傾向と合致しているように思われる。責任をどこまで追及すれば良いのかは確かに複雑な問題だが、必ずしも少数に絞り込む必要は無い、悪役でも悪の組織でもない何かが、そのまま進行した結果問題が発生してしまった。大方それらの連係がうまく取れていなかったからである。だから、ステレオタイプに「加害者」「被害者」というレッテルを貼るのに始終するのではなく、「問題が発生する前に組織の問題に気付く。」という姿勢を以て滞りの無い社会にしていきたいと思う。

事故が発生して、初めて気付かれた―
今回人身事故を「一般人がふと遭遇した死」として捉えた。
死が疎遠化されると同時に数値化されることにより、例えば人身事故は私たちの感覚が日常と非日常を行き来するというアンチテーゼを生んだ。
またマスコミの問題点として、勧善懲悪の名のもとに事件にそのような物語性をもたせ不必要に犯人を限定するという風潮があることに触れた。これは死の通時性と共時性に関係していて、他人の死が残された人々に与える精神的ダメージは、種類や深さはまちまちであるにしろ、「不自然な」死が、「不必要に」周囲に注意を喚起させ、
今は亡き本人から、全ての問題を出発させ、
今は亡き本人に、全ての問題を帰結させようとすることと同じである。
彼女を起点にし、身近な人だけのネットワークをみるよりは、例えば環境要因に着目しても良いだろう。駅のホームから落ちないように、ホーム側にも壁及びドアを設置すれば、また、踏み切りに駅員を配置すれば、行為を物理的に防げるかもしれない。
また私たち人に着目すれば、自殺者を増やしてしまった要因を考えそれを変えていく方向に向かわねばなるまい。

それにしても不自然な死は、本人が希望したにしろしないにしろ、最期を待つ時間と他者との対話が不十分なままで終了してしまうのだから、周囲に、中途半端な、いや〜な感じが残るであろう。
その辺は当事者も多少は想像つくと思うのだが、今日もどこかで決心をした人がいるのかと思うと、重い気分になる。

人生で挫折して耐え切れなくなったとき、
悲しいことがあったとき、
暇で退屈で何も楽しいことが無いように思えたとき、
そんな時に、命を絶つことまで思い至ってしまうのかもしれない。

※1村上春樹の『アンダーグラウンド』は地下鉄サリン事件の報道にまつわる話で、「リアルな」報道が試みられている。