お菓子の家


2006年8月19日午前8時。

外から、窓を通して家の中へ、朝の光が降り注いだ。
木目が露わになり・艶めき・傷は身体についたそれで
モノだということを忘れさせてくれる。
家具に、命が宿った。
木は今も生き続けている。

そういえば家具はmade from woodじゃなくてmade of woodだったなと、無駄でもなかった受験知識を思い出す。


世の中のいろんなものは変化しながら成り立っている。

ナカミ変わらずしてカタチ変わるもの。
それは同じ事だ。
カタチ変わらずしてナカミ変わるもの。
それは別物になっている。
前者は自然物、後者は人工物とでもしておこうか。

木は、素材は、形が中身に追従する。
(ここでいう中身は形が変わるという存在原理。だから変わらない)
人間はどうか。
やはり、中身が「変わる」ということはありえないのではないか。


家という恒常性に慣らされた私達は、
むしろ、より変わることが出来ない。


家具は生きているという話では、
木は食物連鎖の中で、輪廻の中で、木として確固たる地位を保っていることを言おうとした。
つまり、木は形を変えることによって、変わらない中身をもっているのだ。

同じような、変われない私の話をしようと思う。

家は父が設計したこじんまりとした一戸建で、内装はアンティーク調。
石膏像、アーチ窓、ランプ。
そして、本。

何万冊あるか分からないが、ほとんどが父の本で、内容は歴史ものだ。
本で埋まっていない壁はない。
家の外側にまで本棚が進出している。

そんな家の娘なのにも関わらず、私は本を読まない。
正直に告白しよう。
小説やエッセイ、たまに文学作品を、月に1冊読むか読まないか。
あとはレポートのための調べ物で読む本。
それくらいしか読まない。

親の知的資本がこれだけ退けられた話を聞いたことが無い。
私は親不孝者なのだろうか。たぶんそうだ。


それでも文学部にしたのは何故。
実は家族全員文学部なのだ。
父はドイツ文学、母はフランス文学、私はイギリス文学。
見事に割れたのがおもしろい。
何となく、「こうなったらおもしろい」という予想に、
操作されていた気もする。

でも、
それは自分自身の選択ではないのでは?、と言うのは、ナンセンス。


お菓子で出来た家に住む子供は、
お菓子が好きだろうか。


私は、本で出来た家に住む子供。
ありあまる本を見ながら、食事し、眠り、起きる毎日。
風景の変化といえば、タイトルの配列に違和感を覚え、本棚の本の位置が変わったことに気が付くこと。
目を休める緑がないとやってられない。


いつでも、どこでも。
手元に本がないと、そわそわする。

これって好き、なの? ―否。
じゃぁ嫌い? ―否。

とりあえず新鮮味を感じないから感情が湧いて来ない。
好きというか、ただかっこいい(読書家というステイタスが。)
嫌いというか、ただ遠ざけたい(たまに拒絶反応)

前者は見栄の問題で、
後者は内的な問題。

自分の一部になってしまったものであるがゆえ、
拒絶反応が起こったのかもしれない。

鬱陶しいものはいつも、外部でなく、自分の中にあるんだ。
自分の中にあるものは、始末に終えないから。
過去は消せない
教育は否定できない
性格は変えられない

幼少の自分にとって、本とは難しいものだった。
しかし自分が成長すると、読める本が出て来た。
本と一緒に成長した。
振り返る過去は、自分じゃなくて家だった。

そんな訳で。
いつものように、かばんに本を詰め込んで、外へ出かけた。

お菓子の家の少女は、
家を出るたびに、屋根のチョコレートをもぎとって出て行く。